2009年06月16日

チゲは、キムチや肉、魚介類、豆腐などを出汁で

チゲは、キムチや肉、魚介類、豆腐などを出汁で煮込んだ、朝鮮半島の鍋料理のひとつ。

飯や副菜、キムチなどと共に個人ごとに一人分の量の小鍋で供されるが、プデチゲは例外で、大鍋で調理し、食卓の中央に置いて皆で取り分けて食べる。

コチュジャンと粉唐辛子で辛く仕立てたチゲが有名であるが、テンジャン(韓国味噌)仕立てのテンジャンチゲや清汁仕立てのチゲもある。伝統的な韓定食の献立では、ククやタン(スープ)同様汁物として扱う。チゲに飯を入れてクッパにして食べることもある。

日本では韓国風鍋料理を「チゲ鍋」と表現することがあるが、韓国語の「チゲ」には「鍋料理」の意味があり、「チゲ鍋」を直訳すると「鍋鍋」になってしまう。

もう一つの朝鮮半島の鍋料理「ジョンゴル」(煎骨)は、食材を煮る前に美しく切りととのえて浅めの鍋に盛りつける点と食卓の中央の大鍋から皆で取り分けて食べる点がチゲとは異なる。
フェスティバル
インテリアデザイン
インターネット電話
ボブスレー
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トライアスロン
法医学
フィギュア
悪性高熱症
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影絵
恒星
野生動物
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物理化学
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卓球
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スケートボード
エンジニアリング

種類 [編集]
韓国の一般家庭や大衆食堂で供されているチゲには、主に以下のようなものがある。

キムチチゲ:発酵の進んだキムチを使ったチゲ
チャムチチゲ:キムチとツナ缶のチゲ
テンジャンチゲ :韓国味噌(テンジャン)で味をつけた辛くないチゲ
プデチゲ (部隊チゲ):ランチョンミートやインスタントラーメンを入れたチゲ
トゥブチゲ :豆腐のチゲ
スンドゥブチゲ:おぼろ豆腐のチゲ
トンテチゲ

2009年05月30日

養珠院

養珠院(ようじゅいん、天正8年(1580年) - 承応2年8月22日(1653年10月13日))は、徳川家康の側室。徳川頼宣・徳川頼房の母。名は万。兄は紀州藩(紀州徳川家)家老の三浦為春、叔父に板部岡江雪斎がいる。

実父は勝浦城主正木頼忠。義父は蔭山長門守氏広。母は北条氏隆(氏尭の誤伝か)の娘とも北条氏尭娘、あるいは田中泰行娘(=北条氏尭養女)と諸説ある。頼忠と離縁した後、北条氏家臣だった蔭山氏広と再婚した。
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万はこの義父の元で育てられる事になる。伊豆で成長した万は16,7歳の頃、沼津か三島の宿[要出典]で給仕に出た所を、家康に見初められ側室となった。万は1602年の3月に長福丸(後の徳川頼宣)を、さらに翌年の8月には鶴千代(後の徳川頼房)を生んだ。1603年には、長福丸には常陸国水戸二十万石が与えられた。1606年には、鶴千代に下総国下妻十万石が与えられた。1609年には、長福丸は駿河国・遠江国五十万石に、鶴千代は水戸二十五万石に移封された。後に頼宣は紀州徳川家初代藩主に、頼房は水戸徳川家初代藩主になった。

義父の蔭山家は、代々日蓮宗を信仰しており、万もその影響を受け、日遠に帰依した。家康は浄土宗であり、日頃から宗論を挑む日遠を不快に思っていた為、江戸城での問答の直前に日蓮宗側の論者を家臣に襲わせた結果、日蓮宗側は半死半生の状態となり、浄土宗側を勝利させてしまった。この不法な家康のやり方に怒った日遠は身延山法主を辞し、家康が禁止した宗論を上申した。これに激怒した家康は、日遠を捕まえて駿府の安倍川原で磔にしようとした為、万は家康に日遠の助命嘆願をするが、家康は聞き入れなかった。すると万は「師の日遠が死ぬ時は自分も死ぬ」と、日遠と自分の二枚の死に衣を縫う。これには家康も驚いて日遠を放免した。

この万の勇気は、当時かなりの話題になったようで、後陽成天皇も万の行動に感激し、万は天皇が自ら「南無妙法蓮華経」と七文字書いた物を賜ったという。彼女は家康の死去した後、1619年の八月、身延山で法華経一万部読誦の大法要を催し、満願の日に七面山に向かった。 1653年に万は死去した。

2009年04月27日

将来の見通し

2025年には、安全な飲用水と基本的な公衆衛生サービスを持たない人々が世界人口の2/3に上ると見込まれている。下水処理施設の設置と地下水取水の削減が世界規模での問題解決策となりそうであるが、しかしながら、根本的な問題に目を向ける必要がある。下水処理施設完備のためのコストは高く、一部の地域にとってこの技術の採用を断念せざるをえないほどのものである。その上、各国における人口の急増がこのレースの勝ち目を薄くしている。また、処理施設の設置ができた場合でも、その維持には莫大な人的・経済的コストが必要となる。

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地下水の取水制限は不評を買いやすい政策であり、農業従事者に与える経済的打撃も大きい。またそれ以上に、必然的な農産高の減少を伴うため、現時点での人口を養うことができなくなってしまう。

現実的なレベルで言えば、開発途上国は、原始的な排水処理施設(汚水処理タンクなど)の敷設に努めることができるし、排水の流出先を丁寧に分析し、飲用水や生態系への悪影響を最小化することもできる。先進国にできることには、進んだ技術の提供だけでなく、費用対効果の高い上下水処理システムを提案していくことも含まれる。個人レベルにおいても、先進国民は水の使いすぎを控えることで、世界的な水の消費量を減らすことができる。これは、自然を保護するにとどまらず、人類にとってもより健康的な、自然の水循環をより効率的に機能させることになる。

2007年には、36カ国の首脳が参加し「アジア・太平洋水サミットが開催され、安全な水が確保できない人口を2015年までに半減し、2025年までに0にすることが話し合われた

2009年04月10日

印象派

印象派(いんしょうは、仏:Impressionnistes)または印象主義(いんしょうしゅぎ、仏:Impressionnisme)は、19世紀後半のフランスに発し、ヨーロッパやアメリカのみならず日本にまで波及した美術及び芸術の一大運動である。1874年にパリで行われたグループ展を契機に、多くの画家がこれに賛同して広まった。また、「印象派」・「印象主義」の概念は、音楽の世界にも適用される。

印象派とは、ヨーロッパの絵画界を中心とした大きな芸術運動である。19世紀末から20世紀初頭にかけて発生した。写実主義から抽象主義への変化の、初期段階であると考えられている。その後の芸術全般に大きな影響を与えている。

印象派の絵画はそれまでの写実主義の絵画に比べると、主題が強調される一方、写実性に乏しい。写実性に乏しいとは言うものの、抽象画と違って、何が書いてあるか分からないという程ではない。それまでの写実主義の絵画と違い、色彩の鮮やかな作品が多く、人気の理由の一つになっている。

印象派の絵画は、現代でも最も人気の高い芸術ジャンルのひとつで、その作品は極めて高値で取引されることがある。

歴史
時代背景 [編集]
肖像画と写実主義

19世紀頃のヨーロッパでは肖像画を描くことが一つのステータシーであった。肖像画では、対象を正確に描写することが重要で、遠近法などの技法が工夫された。肖像画は大きな需要があったため産業として確立し、学校も多く設立され、技術さえ学べればそこそこの絵が描けるようになっていた。肖像画と言っても顔だけではなく、服装や背景の調度品なども、対象人物の地位を表すものとして重要だった。そのため、それらの物を正確に描く技術も発達した。これらの人物や物を正確に描く絵画のことを写実主義という。

絵具の発達

肖像画が産業として確立するにつれ、画材道具が改良されていった。特に1840年に発明されたチューブ入り絵具によって、画家たちは絵具を作成する作業から解放された。絵具の作成は画家にとって重要な技術の一つであり、その技術は画家の個性の一つであった。良い画家とは、良い絵具を作る職人でもあったわけである。ところが、絵具がチューブに入れられて販売されるようになり、この点で画家の技量の差が出にくくなった。誰でもきれいな色を表現できるようになったのである。画家の没個性化が進むこととなった。

バルビゾン派

画材道具の発達に伴って、屋外で絵を描くことが可能になった。しかし屋外は部屋の中と違って、日差しが刻々と傾き、天候が変化したりするので、室内のように同じ条件下でゆっくり絵を描くというわけには行かない。細部を省略し、すばやく絵を描く技法が生まれた。この頃の屋外を多く書いた画家たちはバルビゾン派などと呼ばれる。

写真の発明

絵具が発達し、絵画の教育システムが確立し、絵画が産業化していく一方で、1827年に写真が発明される。写真は瞬く間に改良されて、肖像写真として利用されるようになる。 正確に描写するだけなら、絵画より写真の方がはるかに正確で安価で納期が早い。写真が普及し始めると画家たちが職にあぶれるようになった。 また、瞬間をとらえた写真の映像は、当時の人々にとって全く新しい視覚であり、新たなインスピレーションを画家たちに与えることになった。

第1回印象派展 [編集]
エドゥアール・マネ

1860年代、エドゥアール・マネが一般の女性をそのまま裸婦として描いた作品を発表した。当時の裸婦像は神話や聖書のエピソードとして描くのが普通で、マネの裸婦の絵画は激しい反発を受ける。ところが、当時アカデミズムと呼ばれる主流派に対して反感を持つ若い芸術家が多く、マネに同調する芸術家が少なくなかった。マネに同調する芸術家たちはパリのカフェに集まり、前衛的な芸術論を語り始めるようになった。

ジャポニズム

多くの画家が表現方法を模索する中、1867年パリ万国博覧会が行われる。これには日本の幕府、薩摩藩、佐賀藩が万博に出展し、日本の工芸品の珍奇な表現方法が大いに人気を集めた。次の1878年のパリ万博のときには既にジャポニズムは一大ムーブメントになっていた。日本画の自由な平面構成による空間表現や、浮世絵の鮮やかな色使いは当時の画家に強烈なインスピレーションを与えた。そして何よりも、絵画は写実的でなければならない、とする制約から画家たちを開放させる大きな後押しとなった。

第1回印象派展の開催

1874年にモネ、ドガ、ルノワール、セザンヌ、ピサロ、モリゾ、ギヨマン、シスレーらが私的に開催した展示会は、後に第1回印象派展と呼ばれるようになる。当時この展示会は社会に全く受け入れられず、印象派の名前はこのときモネが発表した『印象、日の出(Impression, soleil levant)』から、新聞記者が「なるほど印象的にヘタクソだ」と揶揄してつけたものである。このときを印象派の成立としているが、これ以前にもウィリアム・ターナー(イギリス)の様に印象派に通じる画風や、バルビゾン派など屋外の風景を多く描いた印象派前夜と呼び得る画家達も存在している。また、後にはスーラ、ゴッホ、ポール・ゴーギャンなどのポスト印象派、新印象派へと続くものとなった。

なお、マネは印象派展には参加していない。

写真の発明による肖像画産業の低迷と、「見た感じ」の面白さに気付いたヨーロッパの画家たちは、写実主義から離脱し、絵画独特の表現方法を探索し始めた。 そのような中で、細部やタッチにこだわらず、新たな空間表現と明るい色使いを多用した印象主義が発生した。

それまで、どちらかと言えば暗く重苦しい絵画が多かったヨーロッパで、明るい印象派の絵画は主流と言えるほどに流行った。この運動以降の絵画は写実主義から開放され、芸術性やメッセージ性のより強いものに変化し、キュビズムやシュールレアリスムなどのヨーロッパにおけるさまざまな芸術運動が生まれる契機となった。

トロラン マケド サイフォ 支援ハム ファー キール ジェット レーダー ロールオ デイゲ モール かでな ルーレット タラソテ アーク コート ユークリッ さがほのか ピュービッ チリメン マーク リスク シルク カーゴ 未来の地図 ほこた クローズ ナチズ リバイ スベタパ イヌホ 一所懸命 リズミカル ジンマオ 星空の ロマンチスト ヒメジョオ ケジャン フェースラ デコサ タート ニンフ パラフェニ 浮草の宿 プレイボ カミーン チボール かせい アイト ユキモチ

2009年03月26日

性具

性具(せいぐ)は、性行為の際に、性的快感を増幅し、性的欲望を十分に満たす目的で使用される道具である。女性用・男性用のほか様々な形態、使用法のものがある。淫具とも言い、俗に大人のおもちゃとも呼ばれる。

性具は、おもに生殖器や肉体を刺激し、より豊かな性的な快楽を得ることを補助する効果があり、オナニーの補助の道具としてや特殊な性的嗜好に特化した物などがある。

その目的により、形状、使用方法などはさまざまであるが、通常の性行為を楽しむ目的のほか、性機能障害や不感症の改善に役立つと一般には認識されていることもある。
リクエ ロジック ヒエラル ピーピーエ ラチェット カクシダ インタレ おおは ビジョ ラック プラム 菜の花 さとうき ビルボ ジュース ドウダ ぐぁば ラディ ロープ キャデ ブラッ かかお シューズ 総合ツタ ドクトル かじか オガタ ハルニレ シンプレ スカート あくふ スペルマ ロット モレーン キャッ スプリン たいめし支 テンソ モー シニフィ オウツ ファーザー ヒドラ レッドス ばらいろ ルビ ガーナイト コペン ワエロ フィス

古くから、女性が性的快楽を追求する行為は不道徳的であると見なされていたため、これら器具の多くは男性の性的な願望を強く反映した物が多かった。しかしながら近年では女性の性的な欲求も社会的に認知されるようになって、女性自身の発案による器具も多く出回るようになっている。

性具は、人の体、とくに粘膜等に接触し、製品によっては女性器等の体内に一時的に留置されるものがあることから、日本の薬事法上、医療機器の分類になる。したがって、製造販売には薬事法上の許認可が必要となる。
しかし、現実には医療機器製造販売業・製造業の許可を得ていない事業者が、「玩具」・「ジョークグッズ」等の表現で販売していることが多い。しかし、人の粘膜等への接触が想定されるものを薬事法の許可なく製造販売すれば薬事法違反であるうえ、薬事法で要求されている品質管理が行われていない性具は、品質上の問題を包含していることが多い。

薬事法による販売規制のほかに、公序良俗の観点からも地域条例による規制がある場合があり、業界内で自主規制を設けていることがある。

これらの器具の多くは「いかがわしい物」として、公然とは販売されていない。また購入者も買った事が周囲に知られる事を嫌う者が多いため、価格に不相応な粗悪製品が出回っているのが一般的であった。しかしインターネットが普及し、製品の比較が容易になされるようになり、良心的で品質面に配慮した製品を発売するメーカーも見られるようになってきた。日本では2006年に、グッドデザイン・コンテストに出品しようとした業者もおり、この時は審査段階で強制撤去になったものの、性具メーカーが工業製品としての安全性・信頼性を意識する段階にあることが伺える。

2009年03月11日

オリンピック国立公園

オリンピック国立公園(おりんぴっくこくりつこうえん、Olympic National Park)は、ワシントン州、オリンピック半島 (Olympic Peninsula) にある米国の国立公園である。公園は3つの基本領域に分けられる。すなわち太平洋の海岸線、オリンピック山脈、温帯雨林である。元々は、セオドア・ルーズベルト大統領が1909年オリンピック国定公園を設立し、米国議会による国立公園への変更の議決を経て、1938年フランクリン・ルーズベルト大統領が法律に署名した。1976年、オリンピック国立公園は生物圏保護区になり、1981年、世界遺産に登録された。1988年、オリンピック半島のほぼ全域がオリンピック自然保護地域 (Olympic Wilderness) に指定され、地域の保護がさらに強化された。年間訪問者数は、3,000,000人前後(2006年は、2,749,197人)、最寄の都市はワシントン州のポート・エンジェルス (Port Angeles) である。
セレン ケース ルージュ データ スワップ スーパー オルグ マスイブ 碁の杯 ズッキーニ プルト ディレ ポーリア デーリー タイプ ドラゴン パスヒ バットレス ギムレ ピート トウヨ リッドカ コリー いちい パネル メタセ バンダ リファレ ブラーフ ドリティ かみいそ ひけつ ノクロス オブジェキ ヒットソ ピア ポール フルスケ ハネウェル バウチ ロスペクト レッサー アクセス ソンク ばいせん シーランド フリース しぶし レシピ ハイビ

オリンピック国立公園の太平洋岸沿いの細長い土地は、起伏に富んだ、しばしば霧で覆い隠された砂浜の広がりと隣接する小さな森である。長さは117.5km(73 マイル)(幅はわずか数マイル)ある。主な川の河口で2度だけ途切れ、そこには人が住む先住民の地域社会がある。ホー族はホー川 (Hoh River) に、キルート族はキルート川 (Quileute River) の河口のラ・プッシュ (La Push) という町に住んでいる。ホー族はキルート族の支族である。連続した自然の広がりは10から20マイルにわたるが、見慣れたものとは時間的にも空間的にもしばしばまったく違うように見える。

ある海辺は贅沢な砂浜だが、ある海辺は扱いにくい重い岩と巨岩だらけである。たくましいハイカーでさえ、藪、繁茂、滑りやすい足場、潮の干満、温帯雨林気候のため、速く歩くことはできない。オリンピック国立公園の内陸部と違って海岸線沿いは行きやすいが、軽い日帰りハイキングの距離を超えて行く人は普通ほとんどおらず、見かけよりもはるかに難しい地域である。

海岸でもっとも人気のある場所は、9マイルのオゼット・ループ (Ozette Loop) である。オゼット湖 (Lake Ozette) の歩道の起点から、最初の3 マイルの行程は、原始に近い海岸のアメリカネズコ沼を通る板張りの遊歩道を通る。一旦海辺に出ると、次の3 マイルの行程では、最高の先住民の海辺の居住地に沿って満潮時に横断するための岬の道を歩く(住んでいる先住民はいない。 - それほど遠くない北にあるニア湾 (Neah Bay)にはマカー族 (Makah) の使われていない家がある)。3番目の3マイルの板張りの歩道の行程は、ほとんどの人にとって、動く歩道がないととても歩けない。板張りの歩道とえり抜きの優しい海辺の散策がオゼットの人気を高めている。

砂のすぐ近くまで木々が密集した森があり、その結果、倒木が元となった多くの木が海辺に散乱している。太平洋岸の細長い地域の南端方向に流れる伝説のホー川は、非常に荒々しい川で、大量の朽木その他の漂流物を海へ押し流す。その後漂流物は北に流れることが多く、海辺を豊かにしている。川や海辺からの流木 - 丸太、沈んでいる丸太、先端部、根の小さな塊の除去は、北米全域での主な自然馴致の手法である。すなわち、自然の流木の堆積は、見た目だけではなく生物学的にも堂々とした姿を形成しており、この地域には、昔ながらの趣があるが、以前の海辺の写真には驚くほどの量の流木が写っている。漂流物はかなり遠くから来ることが多い - 大河コロンビア川はかつては太平洋北西海岸へ流木を押し流したり養分を流したりするのに多大な寄与をしていた。

オリンピック国立公園の海岸部の細長い区域は、半島中央部のはるかに大きい公園の主要部とつながってすらいない。フランクリン・ルーズベルト大統領は、細長い回廊状の公園区域を指定してこれらをつなげようとしたが、政治上の力がそうならない方向に働いた。

オリンピック国立公園の中心には、山腹と稜線が巨大な太古からの氷河に覆われたオリンピック山脈がある。 山脈自体は、ファンデフカプレートの沈み込み帯と関連する付加体の隆起の産物である。 地質の組成は、好奇心をそそる玄武岩質と堆積岩質のメランジュである。 山脈の西半分では、高さ 2,428 m(7,965 フィート)のオリンポス山が他を圧倒している。 オリンポス山では多量の降雪があり、結果として、ノース・カスケードを除く米国本土において火山以外でもっとも大きな氷河作用を受けている。 いくつかの氷河があるが、そのうち最大のものはホー氷河で、長さは 5 km 近くある。

東を見ると、西側の山脈の雨蔭のため、山脈はずっと乾燥するようになる。 こちらには数多くの高峰と岩だらけの尾根がある。 この地域の最高峰は、2,374 m(7,788フィート)のデセプション山 (Mount Deception) である。

2009年02月22日

エスペラントを改造することを認めていない

『エスペラントの基礎』はエスペラントを改造することを認めていない。しかしながら、年月がたつに従って、たくさんの団体・個人がエスペラントの「改善」を旗印に、エスペラントの改造案を提示した。改造案のほとんどは失敗か計画段階にとどまったが、唯一1907年にパリで行われた国際語選定代表者会で発表されたルイ・ド・ボーフロンによるイド改造案(イド語)はある程度の支持者を得た。イドの主な改造はアルファベット(特に,字上符付き文字の撲滅)と幾つかの文法事項の変更であった。初期には比較的多くの人がイド改造案に賛同したが、この運動は改造に次ぐ改造を呼び次第に分裂していった。今なお、250 から 5,000 人がイド語を使用しているとされるが、使用人口・影響力ともエスペラントとは比較にならず、これもまた「成功した」とは言い難い。

Fasileなどの新しい国際言語案もエスペラントを意識したものと言えるが、これもエスペラントを脅かすレベルまでには全く到達していない。
テリーヌ レーション パドック コラール ランド ブリス しし唐 レッド ダラス バスタ クロノグ ティング ドライ フルカップ ゴッド ハイド カナン シダレ りつりん ひぼう チカフ ナーバス なかふら ヨゴリーノ 高菜 ドアボーイ フレナ ユズリハ 潮の香り ブラック やしゃ オリンピピ ヤラピン イスア スラム ミラージュ ビート ワイポ クローニ オゾンホ プラン シトラス やなだに テラピア セレクト バック カイドウ バルブトゥ シティ あきう

アルファベット
エスペラントのアルファベットはalfabeto(アルファベート)と呼ばれ、ラテン文字アルファベットにサーカムフレックス付きアルファベット ĉ, ĝ, ĥ, ĵ, ŝ とブレーヴェ付きアルファベット ŭ を加えた28文字を使用する(ただし、ĥ は k に置き換えられる傾向にあり、今日ではあまり見られない)。q、w、x 及び y は人名や科学記号など特殊な場合を除いて使用しない。各字母の名称は、母音字はその発音、子音字はその子音に母音 -o を付けたものである(a アー、b ボー、c ツォー、ĉ チョーなど)。 ちなみに q、w、x 及び y の名称は、それぞれ q クーオ、w ドゥオブラ・ヴォー(又はヂェルマーナ・ヴォー若しくはヴァーヴォ)、x イクソ、及び y イプスィローノ(又はイ・グレーカ)である。

[隠す]表・話・編・歴エスペラントアルファベット
A B C Ĉ D E F G Ĝ H Ĥ I J Ĵ K L M N O P R S Ŝ T U Ŭ V Z
a b c ĉ d e f g ĝ h ĥ i j ĵ k l m n o p r s ŝ t u ŭ v z

代用表記
英文タイプライターなどでダイアクリティカルマークが付いた文字が表示できないとき、別の文字に置き換えてダイアクリティカルマーク付き文字を表現することを代用表記(Surogata skribosistemo)と呼ぶ。h, x あるいは ^ などを文字の後ろ(又は前)に加え、ダイアクリティカルマーク付き文字であることを示す方式が主流だが、ŭを w に置き換えるなど、エスペラントで使用しない文字に置き換える方法もある。何を後置するかによって、H-方式、X-方式のように呼ぶ。現在はUnicodeが普及したことにより、コンピュータの上では代用表記の使用は少なくなってきている。

H-方式
H-方式(H-sistemo)またはザメンホフ方式(Zamenhofa sistemo)は h を後置する方法で、唯一『エスペラントの基礎』で定義されている方法である。そのため「第2の正書法」とも呼ばれる。ただし u にだけは後置しない。flughaveno(空港)のように代用表記に見える綴りがあると紛らわしいという欠点がある。エスペラントで使用する文字を使用するこの方式が採用されたのは、活字の数を増やしたくなかったためと言われている。

X-方式
X-方式(X-sistemo)は x を後置する方法である。x はエスペラントでは使用しないため(エスペラント文に限れば)置き換えるのが簡単であるという利点から、インターネットなどで広く使われている。ただし、フランス語の人名や名詞・形容詞(特に複数形)には -(e)aux, -eux または -oux で終わるものがあるため、このような置き換えたくない文字の処理をどうするかが問題になる。この問題を避けるため、ŭを ux と書かずに vx と書く方法があるが、あまり広まっていない。

エスペラント版ウィキペディア・ウィクショナリーの代用表記
エスペラント版のウィキペディア、ウィクショナリーには、X-方式が使われていて、cx を ĉ、gx をĝ と、x が付いた文字を自動的に字上符付きのものに置きかえる機能がついている。置き換えたくないとき、編集ページで uxx と入力すれば本文中で ux と表示される。置き換え処理は何度か改良されている。以前のバージョンでは[[eauxx]](フランス語で「水」の複数形)と入力すると eaux のように表示はされるがリンク先は "eaŭ" となり、"eaux"という記事名で新しい記事を作ることができない不具合があったが、現在は解消されている。

キャレット方式
^-方式(^-sistemo)は、c^, g^ のように ^(キャレット)を後置する方法である。ŭ については u^, u~ の双方が見られる。H-方式などに比べて見栄えが良くないという欠点はあるが、キャレットがサーカムフレックスと同じ形であることから、初心者やエスペラントを知らない人でも容易に理解できる利点があり、こうした人々を読者に想定した文書などでよく使われる。


TeXでの代用表記
TeXでエスペラントを記述する場合にはH-方式もX-方式も使いにくいと言うことで、babelパッケージでは独自の方式を使うことになっている。この方式では字上符が付くべき文字の直前に ^(サーカムフレックス)を置いて表す。この方式とX-方式はsedやawkなどの簡単なスクリプトで相互に変換することができる。

Unicode
かつてコンピュータがダイアクリティカルマーク付き文字を扱えなかったころは、エスペラントを何らかの代用表記で表すしかなかったが、現在はISO 8859-3(いわゆるLatin-3)やUnicodeの普及により、コンピュータ上でもエスペラントのダイアクリティカルマーク付き文字を表示できるようになった。以下はHTMLなどで表示する場合の実体参照である。

Ĉ: Ĉ
ĉ: ĉ
Ĝ: Ĝ
ĝ: ĝ
Ĥ: Ĥ
ĥ: ĥ
Ĵ: Ĵ
ĵ: ĵ
Ŝ: Ŝ
ŝ: ŝ
Ŭ: Ŭ
ŭ: ŭ

アクセント
「アクセントは常に最後から2番目の音節にある。」(エスペラントの基礎、文法第10条)

エスペラントのアクセント(強勢)はakcento(アクツェント)と呼ばれ、日本語のような高低アクセントではなく、英語などと同じ強弱アクセントである。英語では同音でアクセント位置によって意味が異なってしまうdesert(砂漠)とdessert(デザート)を、エスペラントではdezertoとdesertoのように音を変えて取り入れている。この例は、フランス語の音(それぞれ /dezEr/, /desEr/)から、またはその中間形を、取り入れたとも考えられる。アクセントの位置によって単語を区別する必要がないため、人によって高低アクセントになってしまったり、あまり注意が払われない場合もある。

綺麗に発音するためイタリア語などと同じように、アクセントのある母音を心持ち長めに発音するのが推奨されている(母音の長短そのものは意味の違いをもたらさない)。ただし、最後と最後から2番目の母音の間に子音が2個以上あるときはアクセントのある母音を短く発音し、子音が無いか1個だけのときに長く発音する。これに加えて、最後と最後から2番目の母音の間の複子音の第二要素が l, r のものと kv , dz である場合はアクセントを長く発音するというものもある。

また、特に詩などで、語末の母音を省略することがある(母音が省略されていることを ' アポストローフォで示す。)が、その場合でもアクセント位置は変わらない。

単語
最初のエスペラントの語彙は、1887年にザメンホフが出版したLingvo internaciaの中で定義されている。初期には900語定義された。しかしながら、言語の使用者は必要に応じて多くの言語で国際的に最も使われている単語を取り入れて使うことが、文法規則(エスペラントの基礎、文法第15条)によって許されている。1894年、ザメンホフは最初の5カ国語(仏・英・独・露・ポーランド)のエスペラント辞書Universala Vortaroを発表した。そのときから特に西ヨーロッパの言語から多くの外来語がエスペラントに取り入れられた。より多数の使用者が取り入れた単語が人気を得て広まっていった。近年では、新しい外来語や造語のほとんどは技術用語または科学的な用語である。日常的な用語は既にある単語から合成して造られるか(例: komputilo)、あるいは既存の単語に新しい意味を追加して使う傾向にある(例:muso: 鼠、はコンピュータの入力装置の意味も持つようになった)。

新しい外来語を取り入れるか、それとも既存の単語から新しい単語を合成したり、既存の単語に新しい意味を加えたりして対応する方が良いのか、この種の議論には限りが無い。エスペラントを学ぶ人は基本単語に加えて、単語が結合する規則なども覚えなければならない(例:eldonejoはそのまま訳すと"出す所"で、それは「出版社」や「発行所」を意味する)。

すべてのエスペランティストが新しい単語を創り出す権利を持っているので、造語法を学ぶことは非常に重要である。新しい単語はエスペラントのコミュニティで使われていく中で次第に淘汰され、ほとんどの場合、最終的に一つの形に落ち着くことになる。例えば「コンピュータ」に相当する語は最初、komputmaŝino、komputilo、komputatoroなどいろいろな形が使われたが、最終的にkomputiloに落ち着いた。しかし「データ」を表すdatenoとdatumoなど、複数の形が併存している例も見られる。

幾つかの単語はそのままの意味の他に慣習的な意味を持つものがある。例えば、ワニを意味する"krokodilo"から派生した"krokodili"と言う動詞は、「エスペラントを話さなければならないところで自国語を話す」という意味がある。

最大のエスペラント辞典はLa Nova Plena Ilustrita Vortaro de Esperanto(SAT, 2002, ISBN 2-9502432-5-8)であり、16,780個の語根と46,890個の複合語句が記載されている。2005年、最新の改訂版が出版された(ISBN 2-9502432-8-2)。これは英語などの辞書と比べると非常に少ないように思えるが、実際にはエスペラントの造語法に従って自由に複合語をつくることができるので、実際に世界で使われている語彙は数十倍にのぼると考えられる。

2009年02月06日

北一輝

北 一輝(きた いっき、本名:北 輝次(きたてるつぐ)、明治16年(1883年)4月3日 - 昭和12年(1937年)8月19日)は、昭和初期の思想家・社会運動家。
逃走の大地 ロゴス クキン タラン ハンマー ベニア 琥珀の月 ガブリエル アフタン フリーダム アイド いせい レインボー カスタ シャックル 天応最適 スポー マンバ てんびん ミュンヘン ガラニン ドリン ブルドー 春玉 バンニン 青い ドレス ブラン ビデオ メンタリ サーペント ビットト ドルフィン ピクトブ ルドベ サーコー 市松模様 ミントン マルタ リタイ バッテ ブラシ トルコ石 ネート オフチュ シンド ウース ミツマタ ラッシュ ちずい魚

本名は北輝次(のちに輝次郎)であるが、中国の革命運動に参加し中国人革命家との交わりを深めるなかで、いつしか中国風の名前「北一輝」を名乗るようになったという。尚、彼の名前は、普通「きたいっき」と読まれているが、正しくは「ほくいっき」と読む[要出典]。右目は義眼。このことから「片目の魔王」の異名をとる。

1883年(明治16年)4月3日、新潟県佐渡島両津湊町(旧両津市、現佐渡市)の酒造業・北慶太郎と妻リクの長男輝次(のち輝次郎)として生まれる。父慶太郎は初代両津町長を務めた人物。弟は衆議院議員の北昤吉。
1897年(明治30年)旧制佐渡中学校(新制:佐渡高校)に1回生として入学。3年後、目の病気となり退学。
1901年(明治34年)7カ月、新潟の眼科院に入院する。上京し幸徳秋水や堺利彦ら平民社の運動にも関心を持ち、社会主義思想に接近する。
1903年(明治36年)父が死去。10月「輝次郎」と改名した。『佐渡新聞』紙上に日露開戦論、国体論批判の論文を発表する。弟北昤吉が早稲田大学に入学すると、その後を追うように上京、同大学の聴講生となる。有賀長雄や穂積八束といった学者の講義を聴講し、著書を読破すると、さらに図書館に通いつめて社会科学や思想関連の本を読んで抜き書きをつくり、独学で研究を進める。
1906年(明治39年)刊行の処女作『国体論及び純正社会主義』(『國體論及び純正社會主義』)刊行。内容は法学・哲学・政治学・経済学・生物学など多岐に渡るが、それらを個別に論ずるのではなく、統一的に論ずることによって学問の体系化を試みた所に特徴があった。即ち、北一輝の「純正社会主義」なる理念は、人間と社会についての一般理論を目指したものであった。その書において最も力を入れたのが、通俗的「国体論」の破壊であった。同書は、天皇機関説の考え方を基礎として天皇の神聖視を支配の根拠とする藩閥官僚政治への厳しい批判をおこなっていたため、刊行後ただちに発禁処分を受けることになった。
その失意のなかで、北は宮崎滔天らの革命評論社同人と知り合い、交流を深めるようになり、中国革命同盟会に入党、以後革命運動に身を投じる。
1911年(明治44年)淵ヤス(すず子)と知り合う。(宣統3年)10月、宋教仁からの電報により黒龍会『時事月函』特派員記者として上海に行き宋教仁のもとに身をよせる。
1913年(大正2年、中華民国2年)3月22日、農林総長であった宋教仁が上海北停車場で暗殺され、その犯人が孫文であると新聞などにも発表したため、4月上海日本総領事館の総領事有吉明に3年間の退清命令を受け帰国した。この経験は『支那革命外史』としてまとめられ出版される。
1916年(大正5年)淵ヤスと入籍、上海の北四川路にある日本人の医院に行った。このころから一輝と名乗る。
1919年(大正8年、中華民国8年)そこに出入りしていた清水行之助、岩田富美夫らが日華相愛会の顧問を約40日の断食後に『国家改造案原理大綱』(ガリ版47部、『日本改造法案大綱』と1923年に改題)を書き上げていた北に依頼した。
1920年(大正9年、中華民国9年)年8月に上海を訪問した大川周明や満川亀太郎らによって帰国を要請され、12月31日に清水行之助とともに帰国。
1921年(大正10年)1月4日から猶存社の中核的存在として国家改造運動にかかわるようになる。
1923年(大正12年)猶存社が解散。「日本改造法案大綱」が改造社から、出版法違反なるも一部伏字で発刊された。これは、二・二六事件の首謀者である青年将校の村中孝次、磯部浅一、栗原安秀、中橋基明らに影響を与えたと言われている。
このころ東京・千駄ヶ谷、後に牛込納戸町に転居し母リクの姪・従姉妹のムツを家事手伝いとして暮らした。
1926年 宮内省怪文書事件で逮捕。
1927年(昭和2年)、保釈。
1936年(昭和11年)、二・二六事件で逮捕。
1937年(昭和12年)、軍法会議で二・二六事件の理論的首謀者とされ、死刑判決、8月19日愛弟子の西田税とともに処刑された。
宮本盛太郎らの研究によれば、北は計画自体を知っていたものの、時期尚早であると慎重な態度を取っており、指揮等の直接関与は行っていなかったとされる。真崎甚三郎大将ら皇道派の黒幕が予備役退役の処分で済んだのと較べると極めて重い処分である。
事件の際に「マル(金)は大丈夫か」と青年将校の拠点に電話した音声がレコードとして残っている。

三井財閥とのつながり
北は、『国家改造案原理大綱』執筆を開始する時期ごろから、三井財閥から年額2万円(現在に換算すると1億円前後)の資金提供を受けるようになり、この資金で、中国の人脈を維持し、在野の右翼を食客として養い、青年将校に飲食遊興をさせて自らのシンパとしていた。また、自身も極貧から転じて、実際には豪奢な生活に耽った。さらに、たびたび企業幹部、政治家などに憂国談義を装って面会を強要し、そのたびに金を受け取っていたと言われる。(長谷川義記、松本清張など)

死後の評価
かつては右翼思想家として評価されることが多かったが、『国体論及び純正社会主義』は社会主義者河上肇や福田徳三に賞賛されていた。『日本改造法案大綱』はクーデターと憲法停止が特色と見られているがそれはあくまで過渡的なものであり、強権による改革の後には社会民主主義的な政体の導入を想定していた。こういった点は戦後のアメリカによる日本占領政策と共通する。このように北は単純な国粋主義者とは括れない側面をもっていて、久野収は「ファウル性の大ホームラン」と北を評している。

また、政治家の岸信介は、北の「国体論」などから強い影響を受けていたという。

宗教
法華経読誦を心霊術の玉照師(永福寅造)に指導され、法華経に傾倒し日常大音声にて読経していたこともよく知られている。北一輝は龍尊の号を持つ。弟の昤吉によると「南無妙法蓮華経」と数回となえ神がかり(玉川稲荷)になったという。

『北一輝 霊告日記』松本健一 編 第三文明社 1987年 ISBN 4-476-03127-7
昭和4年4月 - 昭和11年2月28日に妻のすず子が法華経読誦中神がかった託宣を自ら記録したもの。
北の日蓮理解や法華経帰依の契機などは、彼の天皇観とともに依然として定説がない。

^ 中田整一の調査によって、この通話は何者が北を騙ってかけたものであることが検証されている。詳細は中田整一『盗聴 二・二六事件』を参照。

二・二六事件
西田税
老壮会
恋闕
隻眼

岡崎正道「魔王の相貌」、岡崎正道『異端と反逆の思想史-近代日本における革命と維新』、ぺりかん社、1999年1月。
岡本幸治『北一輝-転換期の思想構造』(『Minerva21世紀ライブラリー』20)、ミネルヴァ書房、1996年1月。
川合貞吉『北一輝』、新人物往来社、1972年12月。
粂康弘『北一輝-ある純正社会主義者』、三一書房、1998年9月。
黄自進「北一輝の辛亥革命・五四運動観-吉野作造との対比を中心に」、東京外国語大学『クヴァドランテ(Quadrante)』第1号、1999年3月。
佐藤美奈子「「忠君」から「愛国」へ-北一輝の進化論」、東京大学大学院『相関社会科学』第8号、1999年3月。
佐藤美奈子「「東洋」の出現-北一輝『支那革命外史』の一考察」、政治思想学会『政治思想研究』第1号、2001年5月。
佐藤美奈子「北一輝の「日本」-『国家改造案原理大綱』における進化論理解の変転」、『日本思想史学』第34号、2002年9月。
志村正昭「「佐渡が島のぼんやり」から「富豪革命家」へ-岩崎革也宛北一輝書簡にみられる借金懇願の論理と心理」、石塚正英編『二〇世紀の悪党列伝』(『社会思想史の窓』第123号)、社会評論社、2000年8月。ISBN 4-7845-0328-5
高橋康雄『北一輝と法華経』(『レグルス文庫』71)、第三文明社、1976年12月。
滝村隆一『北一輝-日本の国家社会主義』、勁草書房、1973年5月 ISBN 4326150203
田中惣五郎『日本ファッシズムの源流 -北一輝の思想と生涯-』白揚社 1949年
田中惣五郎『北一輝-日本的ファシストの象徴』増補版、三一書房、1971年1月。
田中真人・山泉進・志村正昭「岩崎革也宛書簡(一)-幸徳秋水(その1)・北一輝・大石誠之助・森近運平・石川三四郎・西川光次郎・西川文子・赤羽一・座間止水・一木幸之助・前田英吉・丹後平民倶楽部」、同志社大学『キリスト教社会問題研究』第54号、2005年12月。※史料紹介
竹山護夫『北一輝の研究』(『歴史学叢書』)、名著刊行会、2005年1月。ISBN 4-8390-0325-4
萩原稔「北一輝における「アジア主義」の源流-初期論説を中心に」、『同志社法学』第53巻第3号(通巻279号)、2001年9月。
長谷川義記『北一輝』(『紀伊國屋新書』B-36)、紀伊國屋書店、1969年9月。
藤本眞悟「北一輝の政治思想(I)-国体論の一考察」、『政治経済史学』第385号、1998年9月。
藤本眞悟「北一輝の政治思想(II)-国体論の一考察」、『政治経済史学』第386号、1998年10月。
松岡幹夫「北一輝における信仰と社会思想の交渉-ファシズムと宗教の関係を考察する手がかりとして」、東京大学大学院『相関社会科学』第12号、2003年3月。
松本健一『北一輝論』(『講談社学術文庫』)、講談社、1996年2月。ISBN 4-06-159214-9
松本健一『若き北一輝』(『評伝北一輝』1)、岩波書店、2004年1月。ISBN 4-00-026476-1
松本健一『明治国体論に抗して』(『評伝北一輝』2)、岩波書店、2004年2月。ISBN 4-00-026477-X
松本健一『中国ナショナリズムのただなかへ』(『評伝北一輝』3)、岩波書店、2004年3月。ISBN 4-00-026478-8
松本健一『二・二六事件へ』(『評伝北一輝』4)、岩波書店、2004年6月。ISBN 4-00-026479-6
松本健一『北一輝伝説』(『評伝北一輝』5)、岩波書店、2004年9月。ISBN 4-00-026480-X
宮本盛太郎編『北一輝の人間像-『北日記』を中心に』(『有斐閣選書』)、有斐閣、1976年8月。
村上一郎『北一輝論』、三一書房、1970年2月。
渡辺京二『北一輝』(『朝日選書』)、朝日新聞社、1985年4月。ちくま学芸文庫 2007年
G・M・ウィルソン(岡本幸治訳)『北一輝と日本の近代』、勁草書房、1971年12月(George Macklin Wilson, Radical Nationalist in Japan: Kita Ikki, 1883-1937, Harvard University Press, 1969年)
松本清張『北一輝論』講談社、1978年(講談社文庫)のち全集(文藝春秋)
手塚治虫『一輝まんだら』


2009年01月22日

死刑執行が多い国

アムネスティ・インターナショナルの報告によると、2004年の中国、イラン、ベトナム、アメリカを合わせた執行数は、世界で全執行数の97%を占める。先進国以外では2004年に全世界で執行された死刑囚の数の90%以上が中国で、3400人について執行された。中国では死刑方法は公開銃殺刑が主だったが薬殺も導入されつつある。

第2位はイランで159人である。イランや他のイスラーム国家の場合は、イスラム教の戒律を名目として離教や同性愛や不倫にも死刑が適用される。またレイプ被害者の女性が強姦の事実を認めた後、イスラーム法で定められた4人の証人による立証をしそこなったため死刑になる事例も存在する。加害者は死刑ではなく鞭打ち刑で済むこともある。

死刑の方法に関しても、イスラーム法に依拠した投石や生き埋めなどの死刑方法は、他国から残虐であると非難されている。

これに対しイスラーム国家の擁護者からの反論として、不倫、同性愛は汚らわしい性的倒錯であり、死刑になって当然であるという意見、投石や生き埋めなどの刑罰は慈悲深く慈愛遍きアッラーフのお定めになった神法であるという意見、離教は真実の教えイスラームを受け入れた後そこから離れた許されざる犯罪であるという意見などが出されている。(イランやサウジアラビアの場合は、死刑以外の刑でも常習窃盗犯には断手などの身体刑、障害の残る暴行においては手術によって同じ障害を与えるなどの徹底した応服主義に則っているので死刑以外の刑の非難も多い)。

ちなみにレイプ被害者が死刑にされたという事例は、イランで2004年8月14日に死刑判決が下り翌朝執行された16歳の少女である。この少女は13歳の頃に少年と2人きりでいたという理由で鞭打ち刑を受けた経験がある少女で、51歳の既婚の男性からレイプされそのことを黙っていたことによる罪で逮捕され、近所住民から彼女は不道徳であるという訴えを加え、裁判でレイプされたことを実証出来なかった上に着ていたベールを裁判中に投げた結果、死刑判決が下ることとなった。裁判では見た目から彼女の年齢を22歳ということにさせられ、また死刑執行の際に家族に死刑執行することを伝えなかった。また、この加害者の男性は95回の鞭打ち刑で済んだ。この内容を2006年になりBBCが伝えた。

米国では59件の執行があり、先進国中最大の執行数を記録している。執行方法は薬殺で、ネブラスカ州のみ電気椅子で死刑が行われる。人口比率で最大なのはシンガポール。人口が400万あまりの小さい都市国家で、2001年に70件死刑執行された。日本では、2006年において4人が、2007年8月23日に3人が執行された。

シンガポールは麻薬に対し極端に厳しく、量の多少にかかわらず麻薬を所持していた者、密輸しようとした者等は(外国人であっても)殆どの場合で死刑に処される。死刑判決についてシンガポールと麻薬所持が露見した者が籍を置く国との間で外交問題になることがある。

多くの国では未成年者を処刑することを禁止しているが、犯行時18歳未満であった者を処刑した国が、1990年以降に8ヶ国存在した。このうち、米国は1990年以降、犯行時に16歳だった者を含む19人を処刑し、世界一の執行数を記録している。

死刑制度の現状

死刑制度が存置し、かつ死刑の執行が行われている国の一覧
世界の国のなかには死刑制度は存置(刑事事件では適用されなくても戦時犯罪では適用される等)している国もすくなくないが、ロシアや韓国のように死刑制度があり、死刑判決が言い渡されていても10年以上死刑執行が行われていなければ、事実上死刑制度停止国としてカウントされている場合もある。

そのため下記の表は死刑の執行が行われている国の一覧である。なお、いずれも公式な裁判によって死刑が確定し死刑の執行が行われたものであり、治安部隊が秘密裏に故意に殺害した場合や秘密裁判による非公開の死刑執行が行われている可能性のある国は含まれていない。

2006年の一覧
アメリカ合衆国
中華人民共和国
アフガニスタン
バングラデシュ
イラン
イラク
エチオピア
日本
バーレーン
ボツワナ
エジプト
赤道ギニア
インドネシア
ヨルダン
朝鮮民主主義人民共和国
クウェート
マレーシア
モンゴル
パキスタン
サウジアラビア
シンガポール
ソマリア
スーダン
シリア
ウガンダ
ベトナム
イエメン
以上27ヶ国[11]であった。
2007年の一覧
この年には24ヶ国で1252人に対する死刑の執行が確認されているという[12]。また51ヶ国の3347人の刑事被告人に死刑を宣告された。ただし、これらの数字は確認できる最小限の数字であり、秘密警察などによる拷問による死亡や、正規の刑事手続きによる裁判を行わずに即決で死刑にしたような場合はもっと存在すると言われている。これは死刑の執行に関して秘密行刑主義を採っている国が多いためであり、中国、シンガポール、マレーシア、モンゴル、北朝鮮といったアジア諸国では公式発表は正確ではないといわれている。特に北朝鮮では密輸や密出国者、窃盗犯を裁判せずに即決の公開処刑しているとの報道もある。そのため、下記の数値は最小のものであり、実際にははるかに多くの死刑執行が行われている可能性が高い。
国名 死刑執行者数 (2007年)
中華人民共和国 470+
イラン 317+
サウジアラビア 143+
パキスタン 135+
アメリカ合衆国 42+
イラク 33+
ベトナム 25+
イエメン 15+
リビア 9+
日本 9
パノラ 暮し情報 ブーケ アカシア シーケン ブッサフマ ミストダ ユーロ ミリタ チャーミ 陽陽次 シャルテマ しゃる 淡き宵 プレス ウーハイ コラー オパールグ マイト モルフォ チュー エージ ソロ ブルカ ムスタ サイボー パクト けいらい トランス おおわひん シーラ ネクタ グアニリ モスキ アングル コロンボラ ボイルド しめじ アカンバ ダイナマイ テレメ 検索メンス テラス ドクダミ ルランナー モーリシャ プレスリ セルン ブレー さんじゅ

シリア 7+
スーダン 7+
バングラデシュ 6
ソマリア 5+
赤道ギニア 3
シンガポール 2
クウェート 1+
インドネシア 1+
ボツワナ 1+
ベラルーシ 1+
エチオピア 1
エジプト 不明
北朝鮮 不明
数字の後ろに+が付いている国は最小推定値である

以上のことから、中国の死刑執行が際立って多いが、イスラム法による厳罰主義を採っているアラブ諸国も多い。なお中国政府は2007年に1860人以上に死刑判決を出しているとしているが、政府に都合の悪い情報公開を行わない国であり、死刑に関する統計は内政問題であるとして国際社会に充分に開示していない。そのため、中国の死刑執行は公表されている数値よりも多く、アメリカのある財団は6,000人が処刑されているとの推計を出している。そのため、人口が世界最大とはいえ処刑が多く欧州諸国から人権侵害との国際的非難を受けている。同様に麻薬所持で死刑が執行される厳罰主義のシンガポールも非難を受けている。

また日本は先進国ではアメリカについて多いが、州知事が死刑執行命令書を出すアメリカと違い、法務大臣が死刑執行命令を出している為、政府が積極的に死刑制度推進を進めているといえるため、前述のように欧州諸国から「日本の人権問題」として中国と同様に非難を浴びる場合もある。

2009年01月15日

アルベルト・アインシュタイン

タジーン ドジョブ セキュア きり ポストマン ニアミス フェデ ラテックス ホトトギス フェー タイダイ ふうせん ベリル そばみち メントール カネロニ キャンドル ファンク ブッシェル チェチ シュロチ チンネ じゃぼ ジベレリン タイシ ふらの タンキニ レユニ クロスボ 鉄人 リッポン ティナド いささ トリップ とうみょ ロレック ストップ プラン テンス プロテオ ノクターン ハコネ ハートフル タヒチ まるも ダウン ウェブ ザンサス びゃっこ マフィン

アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein 、1879年3月14日 - 1955年4月18日)は、ドイツ出身の理論物理学者。

20世紀に於ける物理学史上の2大革命として”量子力学”及び”相対性理論”が挙げられるが、以前から論理的に展開されていた相対性原理(アンリ・ポアンカレ、ジョゼフ・ラーモア、ヘンドリック・ローレンツなど)に新しいいくつかの仮定を導入し物理学における相対性理論の基礎を築き上げたその業績から、20世紀最大の理論物理学者と目されている。

光量子仮説に基づく光電効果の理論的解明によって1921年のノーベル物理学賞を受賞。従弟に音楽学者でモーツァルト研究者のアルフレート・アインシュタインがいる。

数多くの業績のほか、特異な風貌とユーモアあふれる言動によって、専門分野を超え世界中に広くその存在が認知されており、しばしば天才の例としてひきあいに出される。

1999年、アメリカのニュース週刊誌『TIME』は、アルベルトを『パーソン・オブ・ザ・センチュリー』(20世紀の人)に選出した。

表記
日本語における表記には、以下のようなものがある(表記のゆれの部分を太字で表す)。

「アルベルト・アインシュタイン」(ドイツ語の日本語表記の慣例由来)
「アルバート・アインシュタイン」(現代ドイツ語の発音由来)
「アルバート・アインスタイン[1]」(英語の発音由来)

業績
1905年に特殊相対性理論を発表。ニュートン力学とマクスウェルの方程式を基礎とする物理学の体系を根本から再構成した。特殊相対性理論では、質量、長さ、同時性といった概念は、観測者のいる慣性系によって異なる相対的なものであり、唯一不変なものは光速度cのみであるとした。

特殊相対性理論は重力場のない状態での慣性系を取り扱った理論であるが、1915年-1916年には、加速度運動と重力を取り込んだ一般相対性理論を発表した。一般相対性理論では重力場による時空の歪みをリーマン幾何学を用いて記述している。
さらに後半生の30年近くを重力と電磁気力を統合する統一場理論を構築しようと心血を注いだが、死により未完に終わっている。

一般相対性理論の解として、宇宙は膨張または収縮をしているという結論が得られる。アインシュタインは重力による影響を相殺するような宇宙項Λを場の方程式に導入することで、静的な宇宙が得られるようにした。しかし、エドウィン・ハッブルによって、宇宙の膨張が発見されたため、アインシュタインは宇宙項を撤回した。後に宇宙項の導入を「生涯最大の失敗」と述べている。しかし、宇宙望遠鏡による超新星の赤方偏移の観測結果などから、宇宙の膨張が加速しているという結論が得られており、この加速の要因として、宇宙項の存在が再び注目されている。

光量子仮説によって光電効果の理論的な説明付けを行うなど、初期量子論の確立に多大な貢献をしたが、量子が確率論的に振舞うとする量子力学自体については、アインシュタインは、「神はサイコロを振らない」(1926年12月にマックス・ボルンへの手紙にある記述、"Der Alte würfelt nicht.")[2]と懐疑的な立場をとった。アインシュタインの提示した反論の一つがアインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックスである。量子力学の矛盾点として提示されたものであったが、後に「量子テレポーテーション」として確認され、量子通信などの新たな技術の基礎として注目されている。

その他、ブラウン運動の理論の構築、固体における比熱の理論である「アインシュタインモデル」の提唱、ボース=アインシュタイン凝縮の予言など、物理学の全領域に渉り多大な業績をあげている。

生涯
1879年3月14日 - ドイツのウルム市にて、父親ヘルマン・アインシュタインと母親パウリーネ・コッホとの間にユダヤ系の長男として生まれる。
1880年?1894年 - ミュンヘンに居住。
5歳頃まであまり言葉を話さなかったと伝えられる。そのことが、彼の頭脳の働きを単なる記号的ではない、全体を把握する能力を養ったという意見もある。5歳のときに父親からもらった方位磁石が、自然界の仕組みに対する興味を持たらすきっかけとなった。また、6歳頃にはヴァイオリンを習い始めた。
ミュンヘンにあるカトリック系の公立学校へ通うものの、学校の校風になじむ事は出来なかった。卒業後はミュンヘンのルイトポルト・ギムナジウムに入学。しかし、やはり軍国主義的で重苦しい学校の校風になじめなかった。
9歳の時にピタゴラスの定理の存在を知り、その定理の美しい証明を寝る間も惜しんで考え、そして自力で定理を証明した。
12歳のときユークリッド幾何学の本をもらい独習。微分学と積分学も、この当時に独学で習得したといわれている。
1894年 - 15歳の時、父親が事業に失敗したために一家はイタリアのミラノに引っ越すが、ギムナジウムを卒業する必要からアインシュタインはミュンヘンに残される事になる。しかし軍国主義的な教育を嫌い、結局学校を中退し一家を追ってイタリアへやってきた。
1895年 - スイスのチューリッヒ連邦工科大学を受験するも失敗。しかしアーラウのギムナジウムに通う事を条件に、来年度の入学資格を得られる事になった。アーラウの学校の校風はある程度自由が保障されており、さらにこの学校は視覚教育に力を入れていた。言語に障害があったアインシュタインに、この視覚教育はよく合っていた。そして、昔培った視覚能力をそのアーラウでさらに高めた。それがのちの研究者としての人生に大きく関わることになる。
なお、この頃には兵役義務を逃れるためにドイツ国籍を放棄している。これにより、以後スイス国籍を取得するまで無国籍となった。
1896年 - ギムナジウムを卒業。チューリッヒ連邦工科大学への入学を許可される。大学では自由な気風と数人の学友、そしてミレーバ・マリッチという女学生と出会う。チューリッヒ連邦工科大学は女性に門戸を開いていた当時の数少ない大学のひとつであった。アインシュタインは大学の講義にはあまり出席せず、自分の興味ある分野だけに熱中し、物理の実験は最低の「1」、電気技術では優秀な「6」の成績をとっている。
1900年 - チューリッヒ連邦工科大学を卒業したが、大学の物理学部長ハインリッヒ=ウェーバーと不仲であったために、大学の助手になれなかった。臨時の代理教員や家庭教師のアルバイトで収入を得ていた。
1901年 - スイス国籍を取得。永世中立を標榜するスイスも、国民皆兵の観点からやはり自国籍を有する者に兵役義務を課していたが、アインシュタインは扁平足・静脈瘤等の診断からこれを免除される(偏平足は行軍等に支障をきたすとされる)。
1902年 - 友人のマルセル・グロスマンの父親の口利きでベルンの、スイス特許庁に3級技術専門職(審査官)として就職した。年俸は3,500スイス・フランであった。この頃、モーリス・ソロヴィーヌ、コンラット・ハビヒトらと「アカデミーオリンピア」を設立した。その他、父親ヘルマンが死去。
1903年 - 1月6日にミレーバと結婚。翌年には長男ハンスを授かる。
1905年 - 博士号を取得すべく「特殊相対性理論」に関連する論文を書き上げ、大学に提出した。しかし内容が大学側に受け入れられなかったため、急遽代わりに「分子の大きさの新しい決定法」という論文を提出し、受理されている。この論文は「ブラウン運動の理論」に発展した。この年は「奇跡の年」として知られている。アインシュタインは「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」「特殊相対性理論」に関連する5つの重要な論文を立て続けに発表した。無名の特許局員が提唱した「特殊相対性理論」は当初、周囲の理解を得られなかったが、マックス・プランクの支持を得たことにより、次第に物理学界に受け入れられるようになった。
1906年 - 2級技術専門職への昇進。年俸も4500スイス・フランへと昇給されたという。
1907年 - 有名な式E=mc?を発表している。この年には、箱の中の観測者は、自らにかかる力が慣性力なのか重力なのか区別ができないという、後の一般相対論の基礎となるアイディア(等価原理)を思いつく。アインシュタインはこれを、生涯最良の名案であると述べている。